満足した?

僕は、あまり言いたくないけど、他に言葉を知らないので言うと、病んでいた。誰かの言葉を必要以上に受け止めすぎたり、受け止めなかったりしてしまう。言葉の咀嚼に1年以上かかることもよくある。僕はPTSDを抱えていて5年も前のトラウマを引きづっていた。「変わりたい」といつも思っていた。でも、ここ2ヶ月ぐらいは、今の自分に満足できるようになっていた。周りの目をほとんど気にしなくなり、逆になんでもさらけ出してそれでも近づいてきてくれる人といたいと思っていた。それが1番かっこいい姿であり、自分のめざしている人間像だと。

だが、今はそんな自分にすごく後悔している。自分に満足してしまったから、自分のことを理解してくれない他人の言葉がおかしいと思ってしまっていた。でも、それは傲慢だと気づいた。理解されないことから、自分のことを正当化してこうなんだって伝えようとしたが、自分では自分を正当化する言葉は全く思いつかなかった。だって、相手は至ってまともなことを言っていて、自分の傲慢で舐め腐った態度が悪いのだから。結局自分の弱さが浮き彫りになって、病んでいる時に思う「変わりたい」という気持ちは間違いじゃない、むしろ人生をあゆむ上でとても必要なものなんだと思った。他人の言葉にいちゃもんつける勇気と時間があれば、もっと自分を変える努力をしていかないといけないなと、すごく反省した今日でした。

今日も僕は死にたいを抱えて生きている

息が出来ない。苦しい。辛い。

だからこそ、好きな物や人を作ってそれに縋ってしまう。ずっと、何かに縋ることはかっこ悪いし、自分のあるべき姿では無いと思っていた。でも、結局僕は弱くて到底1人では生きてはいけないし、縋らないと生きていけない人間だった。僕の好きな歌に、「弱さのない世界は強さとは無縁だ」という歌詞がある。その通りだと思う。僕は弱い。だから、強くなれる。

僕の好きな人の1人は「逃げたくなった時、辛くなった時に都合よく僕たちを利用してもらって無理しないでいてもらえることが重要だ」と言ってくれる人で、この言葉を聞いた時、逃げてもいいんだって、僕の居場所がここであるように生きたいって思うようになった。

別の1人は、僕のような立場の人間の言葉を具現化してたくさん訴えてくれるかっこいい人で、僕だけじゃないと教えてくれた人でした。

この人たちが僕に縋ることは悪いことじゃないんだと、教えてくれました。周りの意見とかそんなものから守ってくれて僕に胸を張って生きさせてくれる、強くしてくれる人達です。

今日も相変わらず、苦しい世界だけれど、大切な人に縋りながら強く生きています。

メディア

僕はテレビなどのマスメディアでコメンテーターなどが自分たちの感想や憶測を話している時間がとても嫌いだ。コメンテーターたちの意見によって見ている側の印象も変わるし、事実出ないことも事実であるかのように感じてしまうこともある。

見ている側の僕たちが送り手の思い通りに印象をつけられているのかと思うと、気分が悪くなる。モラルのある報道などであれば、自分たちの生きていく上で大事だなと感じることができるから良いが、事件の報道などそもそもその人がやってなかったら受け手の僕らまで罪悪感を感じてしまうかもしれない。少なくとも僕はそうだ。犯罪者にも一応人権はあって、僕は"他人は変えたくても変えることが出来ないが、人間は変わる生き物だ"ということを常々思いながら生きてるので、そういう人であってもまずは普通の人と同じように接してみることを心がけている。それで、何かされたら、もう関わらなければいい。自分がもしこれからなにかやったとしても、周りの人間がそうしてくれたら生きやすいし、その先の人生を頑張れると思うんだ。

話を戻すが、僕はマスメディアの報道を学校などで上手に汲み取れる力を磨くんじゃなくて、初めからメディアでいらないフィルターをかけないで置いてほしいと思っている。

もう遅い

僕の知人が保育士をしていて、その人は僕同様理不尽をきちんと理不尽として見過ごせない人です。そんな彼女の身に最近起こった話をここに書こうと思います。

彼女受け持つクラスやその他保育士もコロナというものが流行っていて、彼女は自分のクラスに余裕がある時には、他のクラスのヘルプに入ったりしています。

そんな中彼女の入ったクラスの保育士が冬場で雑巾など掃除をすることが面倒だと言い、食事時に机を規定の数出さなかったので、「この子たちがコロナやインフルエンザにかかったりしたら、責任が取れないから、机はめんどくさくてもきちんと出すべきだ」と注意しました。すると、その保育士は「でも、実際問題コロナ出てないんで、大丈夫ですよ〜。だって、保護者も見てないじゃないですか〜」と返したそうだ。これこそ、今ニュースでよく取り上げられている、保育士の児童虐待をした人たちと全く同じ言い分だ。僕もその知人もこの言葉には、さすがに引いてしまいました。「でも、だって、」と責任を逃れる人の言い訳らしい言い訳で気分の良くない言葉です。知人は関わりたくないと思ってしまって、それ以上声をかけなかったそうだが、人間は問題が起こらないと、そのおかしさに気づけないものだなとつくづく思った。この言葉を放った人は、自分の行動で被害を受けた人からの苦情を受けて、謝って回ったりする側のことなど考えたことがないのだろうなと思った。自分で同じ言葉を保護者に言ってその保護者からの言葉を受け取ればいいのに…と思った。僕は、そんな人が保育士をしていていいものかとも思ったのだが、近年の保育士不足によって園側も辞めさせるわけにはいかないそうだ。社会とは、そうゆうものなのかと悲しくなったが、こんなことを悲しんでいては生きていけないんだろうなとも思う。

この保育士の話もそうだが、僕自身も何かが起こらないと、何も気付けないもので、それこそ避難訓練などほんとに起こってからじゃないと、長々とした話もじっくり聞けないし、身が入らないものだなと実感する。最近で言うと、某有名アイドルが脱退したからこそ、その社長に目が行ったり、その他のグループも同じようになりませんようにと願ったりしたわけで、つくづく自分は何も知らないし見えてないんだなと思う。

生きる意味とは?

僕は生きる意味はないと思う。

生きる意味はないんだからどれだけ探したって見つからない。なのに、何故人は生きているのか?それは、生きる意味はないけれど、生きる目標があるからだと思う。僕は生きる目標として、「何か」を残すために生きているのだと思う。

一生のうちに出会う、家族などどうあろうと離れられない運命共同体のような人間以外の全ての人間はそれぞれの人生の中の"間に合わせ"でしかなく、その関わりはその場しのぎの暇つぶしのようなものだと思っている。だから、自分以外の誰かの心に「何か」を残したり、歴史に名を残したり、自分の死後も自分が作った「何か」が残るようにしたいのであれば、それ相応の人生を送ることになると思う。でも、誰かの心に「自分という存在や思い出」を植え付けたとしても何十年もすれば忘れられてしまうかもしれないし、その誰かが死んだらその人ごと自分の残したものが消えてしまうかもしれない。歴史に名を刻んだとしても何千万年何億年もすれば膨大な歴史の中に埋もれていってしまうのかもしれない。

それならば、たとえその一瞬の暇つぶしでも自分の心に一生残るように生きていき、自分の中に「何か」を残しながら生きていく方がずっと楽しいし、心が軽くなると思った。だから、僕は自分に「生きてきた上で学んだこと」や「思い出、感情」を残し、咀嚼して味わうことが生きる目標だと思う。

つまり、色んな経験を沢山してそれを懐かしむことができるようになることを目標として人は生きているのだと思う。

生きていく上での目標を生きる意味とするならば、色々な経験をしてそれを懐かしむことが出来るようになるために僕らは生きている。

これが、僕の出した答えでした。

割り切れない

からしたら、理不尽が許されるは普通ではない。

最低限してもらっているのだから、まだマシだとかそんなふうに割り切ることが出来ない。

それは僕の精神がまだ子供だからなのだろうか

 

でも、僕は大人になっても理不尽を許すことを普通だと思って生きたくない。

 

割り切ることが出来なくて、沢山自分の中に溜まっていって自分では処理しきれなくなって、相談しているのに、「まだましだよ、割り切りなさい。」と言われてもどうしようもないのだ。

時の流れが何とかしてくれるのを待つしかない。

ただ、時の流れが理不尽を普通にしてしまうのならば、流れて欲しくないとも思う。

今感じてることを忘れたくないが、この処理しきれないやるせなさからは開放されたい。

矛盾している。

 

僕が今生きているこの狭い世界だけでも、こんなにたくさんの理不尽が転がっていて、僕はそれを拾い上げてしまって、辛くなる。

僕はまだ世の中を語るには世の中知らなさすぎるとは思うが、世の中にはもっとたくさんの理不尽や矛盾が転がっていて、理解できないことも多いのだろう。

想像しただけで頭が痛くなる。

 

時が流れていくのは、救われる未来への希望も恐怖も不安も色んなものを感じさせる。

人によって、その瞬間によって、感じるものは変わってくるだろう。

僕は僕の大切な人もそうだし、まだ見知らぬ誰かでもいい。誰かとその感じたものを共有して、または聞いて、寄り添ってもらったり、寄り添ったりできる人間になりたいと思った。

 

僕の感じるこの割り切れないやるせなさを周りと比べられるのではなくて、ただ寄り添ってくれる誰かと出会える日が来ることを時の流れに願って楽しみにしています。

写真

同じ1枚の写真でも

撮った人や観る人でそれまで生きてきた人生や見てきたものが違うから、感じ方も変わってきます。

 

僕は、よく風景の写真を見ることが多いです。

いつも見ている当たり前の何気ない日常が美しく生まれ変わって切り取られている姿は、今まで見てきたものとは、似ても似つかないような感じがして好きです。

 

ですから、SNSで投稿されている写真を沢山拝見するのですが、写真に一言題名のような言葉がつけられていることが多いです。

なので、写真をみて自分なりの題名を考えて、撮影者の方の言葉と、比べてみたり、その方がどんな風に感じてその写真を撮ったのか考えたりして、その写真を楽しみます。

 

ある作曲家の方のスピーチで、

曲は作った人の経験や思いをまとめたものですが、聴いている人はまとめたものを聴いているので、その過程に何があったのか、どういう思いだったのか、なにを伝えたかったのか、聴く人によって受け取り方は変わります。家を外見だけで判断するのではなく、扉を開いて中を覗いてから見ると印象が変わるように、その作り手が何をもって作られたのかを知るのは、曲においても会話においても同じであると、話されていました。

 

僕は写真においても同じだと思いました。

その人が何を思って誰に何を伝えたくてその写真を撮ったのか、知りたいなと思いました。

また自分が写真や音楽、会話をしていくにあたってそういう部分に目を向けて、人間関係や作品を生み出していけたらいいなと思います。